中東情勢の緊張が高まるたびに、日本では「原油価格の上昇」が話題になります。しかし、「肥料問題」は原油ショック以上に深刻であるにもかかわらず、見落とされがちなリスクです。
仮にイラン情勢の悪化によってホルムズ海峡の航行が制限された場合、影響を受けるのはエネルギーだけではありません。農業生産の根幹である肥料の供給が滞り、食料価格の上昇、さらには地域経済の不安定化に直結します。
本記事では、イラン情勢リスクと肥料問題の関係を整理し、中小企業や自治体が今すぐ優先すべき対応について具体的に解説します。
1. なぜホルムズ海峡は「肥料問題」につながるのか
ホルムズ海峡は、世界の石油消費量の約20%、海上石油輸送量の25%以上が通過する重要な海上交通路です(米国エネルギー情報局〔EIA〕、2024年実績:日量2,020万バレル)。日本にとっては特に深刻で、原油輸入量の95.1%を中東地域に依存しており、そのうち約90%がホルムズ海峡を経由しています(財務省貿易統計、2024年)。
重要なのは石油だけではありません。肥料の主要原料も、この地域のエネルギー構造と深く連動しています。
肥料の三要素(窒素・リン酸・カリ)のうち、特に問題となるのが窒素肥料です。窒素肥料の代表格である尿素は天然ガスを原料としており、天然ガス価格の動向が製造コストに直結します。日本の尿素輸入先はマレーシアおよび中国が中心ですが(農林水産省)、これらの国々の製造コストも国際的な天然ガス価格連動型です。ホルムズ海峡の緊張は世界的なLNG価格の高騰を招き、尿素を含む窒素肥料の生産コストを押し上げる連鎖が生じます。
農業になじみのない方向けに補足します。植物が成長するためには窒素(N)・リン酸(P)・カリ(K)の三要素を土壌から吸収する必要があります。このうち窒素は「葉や茎を育てる」栄養素で、コメ・小麦・野菜など事実上すべての作物に不可欠です。
空気の約78%は窒素ガスですが、植物はそのままでは吸収できないため、空気中の窒素を化学的に固定した「アンモニア」に変換し、さらに加工して「尿素」という形の肥料にします。この工程を「ハーバー・ボッシュ法」と呼び、高温・高圧の反応を維持するために大量の天然ガスを使います。
つまり天然ガスは単なる「燃料」ではなく、窒素肥料の「原料」そのものでもあるのです。世界の窒素肥料生産量の大半はこのプロセスに依存しており、天然ガス価格が上がれば製造コストが直接上がる構造になっています。ホルムズ海峡の緊張が肥料問題と結びつく根本的な理由は、ここにあります。
リン酸肥料の原料であるリン鉱石については、日本は主にリン酸アンモニウム(リン安)の形で輸入しており、2020年度実績では輸入量の約90%を中国からの調達に依存していました(農林水産省)。
2021年の中国の輸出検査厳格化以降、モロッコなどへの調達先多角化が進んでいますが、依然として特定国依存の構造は解消されていません。なお、リン鉱石の世界埋蔵量の過半は中国・モロッコに集中しており(農林水産省資料)、長期的な調達リスクが続いています。
カリ肥料(塩化カリウム)については、日本の主要輸入先はカナダが約75%を占めており、かつてはロシア・ベラルーシからも合計約25%を輸入していましたが(農林水産省、2020年度)、ウクライナ侵略に伴う経済制裁により現在はカナダへの依存度が一層高まっています。
構造を整理すると以下の通りです。
中東不安 → エネルギー供給不安 → 天然ガス・LNG高騰 → 世界的な窒素肥料生産コスト増 → 肥料価格上昇 → 食料価格上昇
この連鎖はすでに過去に何度も起きており、現在進行形のリスクでもあります。
2. 肥料価格はすでに上昇トレンドにある
肥料価格はここ数年で大きく変動しています。代表的な指標である尿素価格の推移は以下の通りです。
尿素国際価格の推移(中東産・FOBベース)
2020年:約250ドル/トン(コロナ禍での需要低迷期)
2022年4月:約1,050ドル/トン(過去最高値、出典:SunSirs)
2025年平均:約442ドル/トン(出典:Analyst Japan)
2026年3月現在:約682ドル/トン(ホルムズ海峡情勢緊迫化後、出典:SunSirs)
なお、2024年の尿素価格は一時350〜450ドル台まで低下していましたが、2026年に入りホルムズ海峡の事実上の封鎖状態が続いたことで再び急騰し、2月末比で約47%上昇しました。これは1年前の同時期と比べても約80%高い水準です(SunSirs、2026年3月)。
日本国内の尿素輸入価格(通関ベース)でも、2022年4月に117円/kgの最高値を記録しており、コロナ禍前(2020年6月:約32円)との比較では最大で約3.7倍に達しました(物価高騰ランキング W3G)。2025年11月時点では76円まで低下していましたが、再上昇のリスクは高い状況です。
急騰の背景には以下の要因が重なっています。
ロシア・ウクライナ情勢による天然ガス価格の上昇、中国による輸出検査の厳格化(2021年秋〜)、物流コストの増加(紅海のフーシー派問題含む)、そして2026年のホルムズ海峡緊張の再燃です。世界的に尿素の生産能力は2億4,000万トン超に達する一方、年間需要量は約1億8,500万トンであり(中国化学工業ニュース、2024年)、平時は需給が比較的落ち着いているものの、地政学的ショックが加わると一気に需給バランスが崩れます。
特に日本は肥料原料のほぼ全量を輸入に依存しており(農林水産省)、かつ世界の肥料消費量に占める日本のシェアは約0.5%にすぎないため(農林水産省、2018年)、国際市場における価格交渉力が著しく低く、市況の影響をダイレクトに受ける構造です。
3. 肥料高騰が引き起こす「静かなインフレ」
肥料価格の上昇は、単なる農業コスト問題ではありません。食品製造・外食・物流・小売など、幅広い産業に波及します。
波及の構造
一次影響(農業経営への直撃)
農業経営体における経営費に占める肥料費の割合は、営農類型によって異なりますが、稲作・露地野菜・施設園芸など主要作物の生産コストに大きく影響します。農林水産省の試算では、国内の高度化成肥料の製造コストのうち約60%が原材料費であり、輸入価格の上昇が製品価格に直結します。2022年の肥料価格高騰に対し、国は令和4年度予備費として788億円の緊急支援を措置しましたが、この規模の財政投入を繰り返すことは持続可能ではありません。
農家のコスト増加は、採算の取れない圃場での作付面積縮小、さらには離農の加速につながります。
二次影響(食品製造・加工コストへの転嫁)
農産物価格の上昇は、食品加工メーカーの原材料費増加を通じて加工食品価格に波及します。とりわけ野菜・穀物を主原料とする業態では、原価率の上昇が避けられません。
三次影響(消費者・地域経済への影響)
外食価格の上昇、家計の食費負担増、そして特に地方における消費の冷え込みが生じます。重要なのは、これが「じわじわ効くインフレ」である点です。エネルギー価格のように短期間で急騰するのではなく、数ヶ月から1年にかけて遅れて波及するため、対策が後手に回りがちです。
4. 日本の脆弱性:輸入依存と農業構造
日本の構造的な弱点は、数字を見ると明確です。
食料自給率の現状
農林水産省が2025年10月に公表した令和6(2024)年度の食料自給率は、カロリーベースで38%(4年連続同水準)、生産額ベースで64%です。政府は2030年度までにカロリーベース45%への引き上げを目標に掲げていますが、現状は目標との乖離が大きいままです。
農業従事者の高齢化と担い手不足
基幹的農業従事者の平均年齢は69.2歳(2024年、農林水産省)に達しており、65歳以上が約80%を占めています。2000年に240万人いた基幹的農業従事者は、2024年には111万4,000人と半減しました。農林業センサス(2025年公表の概数値)では、個人経営体の基幹的農業従事者が102.1万人となり、5年前から25.1%減少しています。農業経営体数は今後10年でさらに半減するとの予測もあります(第一生命経済研究所)。
一般労働者の平均年齢が44.1歳であることを踏まえると、農業の高齢化の深刻さは際立ちます。
荒廃農地の拡大
2024年3月末時点における荒廃農地面積は25.7万ヘクタールに達しており、うち再生が困難と見込まれるものが16.3万ヘクタールを占めます(農林水産省)。2023年度に新たに発生した荒廃農地は2.5万ヘクタールに対し、再生利用されたのは1.0万ヘクタールにとどまり、荒廃のペースが再生を大幅に上回っています。また2024年の農地面積は427万ヘクタールで、ピーク時から約180万ヘクタール減少しました。
つまり、外部ショックに極めて弱い構造が固定化されています。肥料価格が上昇すると、採算が合わなくなった農家が「農業をやめる」という選択をします。これは単なるコスト問題ではなく、食料の供給能力そのものの縮小につながる問題です。
5. 中小企業への影響:見えにくいが確実に広がる
農業と直接関係ない企業でも、影響は確実に広がります。
業種別の波及経路
食品メーカー・食品加工業
農産物の仕入れコスト上昇が製品原価を押し上げます。小麦・野菜・大豆など主要農産物は肥料コストと連動しており、円安が重なった場合は輸入原料コストも同時に上昇します。
物流業
燃料コストの上昇(ホルムズ封鎖による原油高)と食品輸送量の変化が二重に影響します。原油が1バレル120ドルまで上昇した場合、日本の実質GDPは1年間で0.60%低下するとの試算があり(野村総合研究所)、現状のトランプ関税による押し下げ効果0.47%を上回る下方リスクが顕在化します。
外食産業
農産物・加工品の仕入れ価格上昇が原価率を押し上げる一方、消費者の節約志向が強まることで客単価の引き上げが困難な状況に陥りやすくなります。
小売業
食品の価格転嫁と需要減の板挟みに直面します。特に地方の中小小売業者は、「人口減少×物価上昇」という二重の圧力にさらされます。
6. 自治体が直面する課題
自治体にとっての影響は財政・産業・福祉の三層にわたります。
学校給食コストの増大
食材費の上昇は学校給食費の増大に直結します。自治体が無償化や補助を実施している場合、財政負担が増加します。全国の公立小中学校の給食費補助に関連する財政圧力は、農産物価格が高止まりするほど拡大します。
地域農業の維持困難
農業従事者の高齢化・減少と肥料コスト高騰が重なることで、地域農業の維持そのものが困難になります。農業が衰退すると、農地の多面的機能(洪水防止・景観維持・生態系保全)も失われます。
生活困窮者の増加と物価対策の財政負担
食料品を中心とした物価上昇は、低所得世帯への影響が相対的に大きくなります。自治体が独自に物価対策を実施しようとすれば、財源の確保が課題となります。
7. いま優先すべき戦略(企業・自治体別)
7-1. 企業が取るべき対応
調達先の分散と代替素材の検討
単一の農産物調達先への依存を見直し、国内産・代替原料の比率を高める検討が必要です。特定の産地依存が高い企業は、リスクの見える化(サプライチェーンマッピング)から始めることが現実的です。
価格転嫁の設計(段階的・透明性)
コスト上昇を「一括転嫁」ではなく「段階的・理由を明示した形」で実施することで、顧客との関係を維持しながら対応できます。農林水産省・中小企業庁が推奨する「価格交渉の見える化」ガイドラインも参考になります。
在庫戦略の見直し
農産物・食品原料の適正備蓄量を見直し、価格上昇局面での調達コスト平準化を図ります。ただし過剰在庫は資金繰りに影響するため、バランスが重要です。
農業との連携(契約栽培など)
地域農家との契約栽培や産直取引は、中間マージンの削減と安定調達の両立につながります。こうした連携は食料安全保障の観点からも今後政策的に後押しされる方向です。
重要なのは「コスト対応」ではなく「構造対応」です。
7-2. 自治体が取るべき対応
地域内食料供給の強化
地産地消の推進は、輸送コスト低減と供給安定化を同時に実現します。学校給食への地元産食材活用拡大は、農家の安定収入確保にもつながる政策です。
肥料の共同調達・補助
農協等と連携した肥料の共同購入による価格低減が有効です。また、農林水産省の「化学肥料低減緊急支援事業」などの国の補助制度を積極的に活用することが求められます。
有機肥料・循環型農業の推進
農林水産省の「みどりの食料システム戦略」では2050年までに化学肥料使用量の30%低減を目標としており、自治体が地域版の推進計画を策定することで、国の補助メニューも活用しやすくなります。
スマート農業の導入支援
ドローンによる可変施肥・土壌センサーを活用した精密施肥により、肥料使用量を適正化する「スマート農業」の導入支援は、コスト削減と環境負荷低減を両立させます。
特に重要なのは、「輸入依存からの部分的脱却」を実現する構造改革です。
8. 解決の方向性:肥料の地産地消という発想
今後の鍵は、肥料原料の内製化・国産化です。主に以下の3つのアプローチが実用段階に入っています。
下水汚泥からの「再生リン」回収
農林水産省の資料によると、国内の下水汚泥には輸入リン資源の12〜16%に相当するリン酸が含まれています。福岡市では「MAP法」による再生リン回収を実施しており、JA全農ふくれんが「e・green」ブランドとして製品化・販売しています(2022年9月〜)。東京都もJA全農と連携協定を締結(2023年12月)し、大都市圏での再生リン活用を進めています。
家畜排せつ物の堆肥化
家畜排せつ物から作られる堆肥は化学肥料の代替・補完として有効です。農林水産省の支援策(令和4年度第2次補正予算)では、堆肥・下水など肥料成分の活用拡大に向けた設備整備支援が盛り込まれています。
食品廃棄物の堆肥化
食品製造業・外食産業から発生する有機廃棄物を堆肥として農地に還元するサーキュラーエコノミーの取り組みは、廃棄物処理コストの削減と肥料調達コストの低減を同時に実現します。
これらは単なる環境施策ではなく、食料安全保障・経済安全保障の問題として位置づけるべきです。農林水産省も、肥料原料を経済安全保障推進法に基づく「特定重要物資」として調査対象に位置づけており(同法第48条第1項)、政策的な重要性が高まっています。
9. 構造化まとめ(意思決定者向け)
課題の構造
課題:ホルムズ海峡リスクによる肥料供給不安・価格急騰
原因:天然ガス価格連動型の窒素肥料製造コスト構造/リン酸・カリの特定国依存/日本の購買力の低さ(世界消費量の0.5%)
影響:食料価格上昇(数ヶ月〜1年遅れで波及)/農業経営の悪化と離農加速/地域経済の停滞
対応:供給源多様化・備蓄強化/地域循環型農業への移行/制度支援の積極活用
10. よくある問い(意思決定者向け)
Q. 原油価格だけ見ていればよいのでは?
不十分です。肥料は食料価格に直結しており、影響範囲・波及時間の観点で原油価格とは別に管理する必要があります。2022年の肥料価格高騰時、国は788億円の緊急対策を実施しました。こうしたコストを事前に読み込んでいる企業・自治体はまだ多くありません。
Q. すぐに影響は出るのか?
数ヶ月〜1年遅れて波及するため、早期対応が重要です。ホルムズ海峡の緊張が2026年2月末に表面化してから、世界の尿素価格は3月中旬時点で約47%上昇しました(SunSirs)。農産物価格への転嫁はさらに数ヶ月後に現れます。
Q. 自治体レベルでできることはあるか?
あります。地域循環型の肥料政策(下水汚泥リン回収・堆肥活用)は、すでに複数の先行自治体で実行されており、国の補助制度も整備されています。まず「地域内の肥料フロー」を把握することが第一歩です。
11. 結論
イラン情勢は遠い国の問題ではありません。ホルムズ海峡の緊張は、エネルギーだけでなく、肥料を通じた食料供給コストの上昇という形で、日本の地域経済に直接影響します。
2026年3月時点の尿素国際価格は682ドル/トン前後まで急騰しており、これは2025年平均の約1.5倍です。日本の農業従事者の平均年齢は69.2歳(2024年)に達し、基幹的農業従事者の80%が65歳以上という状況の中で、コスト上昇は離農の加速というかたちで供給基盤の毀損に直結します。
特に肥料は「見えにくいインフラ」です。しかし、その影響は極めて大きく、しかも遅れてやってきます。だからこそ重要なのは、起きてから対応するのではなく、起きる前に構造を変えることです。
中小企業、そして自治体に求められているのは、短期的なコスト対策ではなく、中長期の供給構造の再設計です。この問題にどれだけ早く気づき、優先順位を上げられるかが、今後の地域の持続性を大きく左右します。
参考・出典
- 農林水産省「肥料をめぐる情勢」(令和5年5月)
- 農林水産省「肥料の価格情報」(令和8年4月24日更新)
- 農林水産省「令和6年度食料自給率について」(令和7年10月10日)
- 農林水産省「農地の現状と展望」(令和6年版農業白書)
- 農林水産省「国内肥料資源の利用拡大に向けて」(2024年10月)
- 財務省貿易統計(2024年)
- 米国エネルギー情報局(EIA)「Hormuz Strait Oil Flows」(2024年)
- 公益財団法人中東調査会「ホルムズ海峡が封鎖されたままで起きた変化」(2026年3月)
- 三菱UFJ銀行経営企画部経済調査室「ホルムズ海峡の事実上封鎖と世界経済への影響」(2026年4月)
- 野村総合研究所「米国のイラン攻撃で現実味を帯びるホルムズ海峡封鎖」(2025年6月)
- ジェトロビジネス短信「日本のLNG輸入量のホルムズ海峡依存度は6.3%」(2026年3月)
- SunSirs「国際尿素価格は高騰、国内価格は比較的安定」(2026年3月)
- 第一生命経済研究所「農家の高齢化と食料安全保障の確保」(2025年)
- 農林業センサス2025年(概数値)
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