ビジネスの成功の鍵は、未来を予測し、適切に判断する能力にあります。
多くの方が情報収集を継続し、積極的に行動されていることでしょう。歴史や過去の出来事からも多くの教訓を引き出せます。
この記事では、歴史に名を刻んだ藤原道長の成功ストーリーを取り上げ、現代のビジネスにも応用可能な仕事術や処世術についてご紹介します。
藤原道長とは?そもそもどんな人?
藤原道長(ふじわらのみちなが、康保3年〈966年〉- 万寿4年12月4日〈1028年1月3日〉)は、平安時代中期の公卿でした。
彼は藤原北家の出身で、摂政・関白・太政大臣といった重要な役職を歴任しました。また、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇といった天皇たちの外祖父となり、非常にその立場を揺るぎないものとしました。
藤原道長は後に関白となる藤原兼家の五男として生まれました。しかし、長兄に道隆や道兼といった有望株がいたため、必ずしも最初から将来を約束されていたわけではありませんでした。
995年に疫病が蔓延し、兄たちの道隆や道兼が次々と亡くなり、29歳で政権の中心人物として台頭しました。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握しました。
その後、天皇の側近や親族として政治的実権を握り続けた道長は、藤原氏の勢力を一層拡大させました。このことが、藤原氏の全盛期を築く礎となりました。
また、道長は政治家としてだけでなく、歌人としても優れた才能を持っていました。歌集『御堂関白集』を残し、花山天皇の治世に行われた寛和二年内裏歌合にも参加。万寿4年(1028年)、62歳で逝去しました。
藤原道長から学ぶ処世術
元々志の大きな父の元で育った藤原道長ですが、初めから将来が約束されているわけではありませんでしたが、後に彼は藤原氏の栄華を築き上げました。
道長はどのような原理や手法で、その影響力を築き上げたのでしょうか。その処世術について詳しく見ていきましょう。
勝機を逃さずチャンスをものにする
道長は名家の生まれではありましたが、五男として生まれ、有力な兄たちがいたため、彼の将来が保証されていたわけではありませんでした。しかし、兄たちが次々と病で亡くなったことにより、道長に意外なチャンスが訪れました。
この時残っていた道長のライバルは、兄道隆の嫡男で8歳年下の甥、伊周(974-1010年)でした。伊周は当時の一条天皇(980-1011年)の中宮、定子(977-1001年)の兄でもあります。
一条天皇は3歳年上の中宮定子を深く愛し、その兄である伊周のことを重用しました。一見すると伊周は当時の天皇に最も近いポジションにあり、道長は劣勢に思えます。
しかし、道長には確実な味方が存在していました。一条天皇の母である宣子です。宣子は道長の姉であり、天皇の寵愛を受ける定子の背後にいる伊周の行動を必ずしも好意的には受け止めていなかったと言われています。
道長はこのような人間関係の機微を見逃してはいませんでした。自分自身が持てるスキルや観察力をもって粘り強く現状を打破していこうと試みます。
このような独自の胆力と観察眼が花開いた結果、宣子は道長を深く信頼し、甥である伊周よりも道長を重用すべきだと一条天皇に推薦しました。ここで、権力争いが公然となり、道長と伊周の間には緊迫した雰囲気が漂いました。
その緊迫した雰囲気の中、伊周が致命的なミスを犯しましす。それが「長徳の変」(996年)です。退位した天皇(事件当時は法王)が自分の意中の人の元に通っていると誤解し、花山法皇を襲ったのです。
この際、伊周の従者が放った矢が法皇の袖に刺さりました。貴族間の暴力沙汰は珍しくなかったものの、これは特に大きな問題となりました。道長はこうした機会を的確に活用し、伊周本人、および伊周派の人物を次々と左遷します。
道長の妹で、天皇の寵愛を受けていた定子もこの事件を境に失意に打ちひしがれ、出家することとなりました。こうして、道長は政界のトップに立つこととなりました。
道長の成功は、彼が遭遇するチャンスを逃さなかったことにあります。
彼は焦らずに好機を待ち、伊周のミスを見逃さず、迅速に行動を起こして伊周を左遷に追い込み、自らの地位を確立しました。このような道長の戦略からは、チャンスが巡ってくるのを待って、それを最大化することの重要性を学ぶことができるでしょう。
成功のパターンを徹底的に理解し、それを実践する
当時の公卿社会における成功のカギは、天皇と強い縁を持つこと、そしてその最も効果的な方法は血縁関係を持つことでした。特に自分の娘を天皇の中宮とし、さらに世継ぎを産んでもらうことが最大の成功パターンでした。
このような政治手法は「摂関政治」と呼ばれ、天皇に代わって「摂政」または「関白」が政治を行う仕組みを指します。摂政は天皇が幼少期や、女性の場合に政治を代行する役職で、関白は成人した天皇の補佐役です。
藤原家は代々、娘を天皇に嫁がせ、天皇家の外戚となることで、摂政や関白の役職に就き、権力を握ってきました。
この戦略の有効性を深く理解していた道長は、自らの娘を続々と天皇の妃にし、自らはその外戚としての影響力を拡大し、権力を安定させるという戦略に基づき行動していきます。
その初めての取り組みとして、彰子を一条天皇の中宮とすることを決めました。すでに一条天皇には定子がいたわけですが、定子を皇后の地位につけ、彰子を半ば強引に中宮としたのです(999年)。天皇に側室がいることは珍しくありませんでしたが、2人の正妃というのは画期的な取り組みでした。
天皇との関係が権力獲得の鍵であることを深く理解していた道長は、前例を破って一条天皇に彰子を嫁がせて、これを突破口として自らの権力を強固に築いていきました。
その後、一条天皇は1011年に崩御し、道長との直接的な縁の薄い三条天皇が即位します。三条天皇にも中宮として道長の娘、妍子を入内させました。
さらに、道長は大胆にも三条天皇に退位を求めました。三条天皇は初めは抵抗しましたが、結局は道長に抗することはできず、道長はついに自分の孫である後一条天皇を即位させます。驚くべきことに、皇太子の地位にもその弟を据えることで、二代続けての天皇の祖父の地位を固めました。
しかし、道長の野望はそこで止まりませんでした。孫である後一条天皇の中宮にも自らの娘である威子を迎え入れることに成功しました。結局、道長の娘たちからは、彰子、妍子、威子、嬉子と4人の中宮が生まれ、3代の天皇が道長の外孫として誕生しました。
道長は、自らの時代において、権力ゲームにおいては天皇との親戚関係が最も重要なことを理解し、この関係を強化するための戦略を、場合によっては強引な方法も取り入れて、徹底的に実践することで自らの地位を盤石にしたといえるでしょう。
一方で、道長自身は、摂政として務めたのは後一条天皇の時代のわずか1年間であり、関白にもなっていません。実は、摂政や関白よりも、人事の決定権を持つ左大臣や、重要文書を管理する「内覧」の役職の方が、権力を集中させるには都合が良かったのです。
道長は名誉や前例にこだわらず、戦略的に重要なポイントを捉え、それを最大化する行動を取ったことで彼の成功を確固たるものとしました。
文化的な趣味を重視する姿勢
道長は、文学を愛好していたことで知られています。漢詩や和歌を詠むのが好きで、歌会などのイベントも頻繁に開催していました。
平安時代の文学といえば、紫式部の「源氏物語」が有名です。紫式部は、道長の娘・彰子が天皇の中宮として入内した際に、道長が女房(にょうぼう、朝廷に仕える女官)としてつけた女性です。
紫式部の物語を道長も楽しみにしており、彼女に手紙を通して励ましの言葉を送ったり、原稿の完成を待ちきれずに自宅を訪問して催促することもありました。恋多き女房・和泉式部(いずみしきぶ)に、恋愛体験記を書くようにすすめたのも、道長といわれています。
「源氏物語」や「和泉式部日記」といった、平安の女流文学が後世に残されたのは、時の権力者であった道長の存在が、大きく影響しているといえるでしょう。
このような取り組みは、同時代における文化人としての道長の名声を高めるだけでなく、後世に自らのレガシーを伝えることにも繋がりました。
企業が美術品の収集や文化支援などを行っている例はたくさんありますが、大切なのは、道長のように心からその芸術を愛し、支援することではないでしょうか。
表面的な文化支援ではなく、道長自身が歌や文学をこよなく愛好する人物であったため、同時代の文化人たちに評価されたと言えるでしょう。
また、道長にとって文化は権力固めにおいても重要な役割を果たしました。
一条天皇に嫁いだ道長の娘・彰子には長い間子供が産まれませんでした。一条天皇も彰子の元へあまり通っていなかったようです。
そこで道長は彰子に教育を施し、一条天皇好みの教養ある女性にするということを画策しました。そこで白羽の矢が立ったのが「源氏物語」の作者、紫式部です。式部を彰子の教育係とすることで、彰子の魅力を高めようとしたのです。この作戦は成功し、彰子の元へ一条天皇が頻繁に通うようになり、彰子は間もなく世継ぎを産むことになるのです。
このように道長はコミュニケーションツールとしての文化の有用性を理解しており、自らの権力獲得に活用したと言えるでしょう。
まとめ
今回の記事では、歴史的人物である藤原道長の人生を振り返り、普遍的な仕事術や処世術を考察しました。
たとえ現在と大きく異なる時代背景であっても、優れた実績を残した人物の働き方や視点には普遍性が存在します。藤原道長に限らず、過去の人物に焦点を当て、現代の仕事術を探求するのも有意義かもしれません。